11年の時の流れ

2022.03.11
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震災から11年
主人が15歳まで住んだ町を訪れた

未だに帰還困難区域で、主人の家には入れなかった
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もしも震災がなかったら…
私は大学卒業後福島には戻らなかったかもしれない。

復興の担い手をふるさとで育てたいと思い、卒業後に福島に戻ったから。

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クリスチャンにもなっていなかったかもしれない。
神様なんて信じてなかったし、神様なんて知らなかった。
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震災については色んなことを思い巡らすけれど
毎回、上手く言えないけれど
私が今生かされていること。
神様が必ず祝福してくださること。
自分が被災したからこそ、同じような苦しみの中にいる人に寄り添いたいと思う。
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私は自分が生まれ育った東北が、福島が大好き。
主人が生まれ育った大熊も大好き。
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今はまだ立ち入りできないけれど
いつか主人が生まれ育ったおうちを見る日が来ますように。

解離性同一性障害と生きていく

結婚してから1年2ヵ月、解離の症状は結婚当初はあったものの、その後はずっと落ち着いていた。人格も出なかったし、多少ふわふわする感じとかぼーっとすることはあっても大丈夫だった。私は夫を愛しているから、できることなら人格ではなく「ちゃんとした私」で結婚生活を送りたい。そう思っていたので、解離の症状が出なかった期間は本当に穏やかで幸せな時間だった。

 

ところが、恐れていた解離性同一性障害の症状が再燃した。1週間前からPTSDの症状が強く出るようになった。私は中学時代、信頼していた先生に車に乗せられて身体をまさぐられたことがある。あることがきっかけでその記憶が強くフラッシュバックして、それと同時にどんどん崩れていってしまった。

最初はフリーズ。普通に過ごしていたはずなのに、気づいたら体が動かなくなって、記憶が飛んで、気づいたら1時間くらい経っている。心配そうな夫の顔。ずっと握られていたであろう手。「ちぬちゃん、フリーズしちゃってたんだよ」と言われてようやく状況を理解した。

次に解離。ふわふわした感覚が続いて、脳内がマーブル色に溶けていく感覚があって、だんだん自分が自分じゃなくなる感じになって、そして子供になる。解離の時の記憶の有無はまちまちで、子供の私をずっと遠くのほうから大人の私が眺めている感覚の時は、なんとなく解離している間の記憶も残っている。子供の私は夫におんぶをせがみ、高い高いをしてもらい、ベッドで飛び跳ねて叱られて大声で泣く。でも頭をなでられてすぐ機嫌がよくなり、ほっぺにちゅーしてもらってニコニコしている。そうこうしているうちにまた脳内がマーブル色に溶けて、だんだん自分が戻ってくる。夫にごめんねと泣きながら謝る。「大丈夫だよ、ちぬちゃんが戻ってきてよかった」と夫は笑う。

申し訳ない思いで胸が張り裂けそうになる。私がいなくなれば夫は幸せなんじゃないかと思い始める。おかしくなってしまったことに対する怒りで剃刀を手にしたけど、夫の顔を思い浮かべたら切れなかった。それならば飛び降りでもしようかと窓を開けてみたけれど、アパートの2階から飛び降りても何も変わらないのはわかっていたのでそっと窓を閉めた。悪化する希死念慮。薬を飲んでも消えない不安感。限界だと思い、夫に病院に電話をして診察を早めてもらえるよう頼んだ。

 

病院には、夫が時間休をもらって一緒についてきてくれた。ちょうど主治医が変わるタイミングだったこともあり、新しい先生はどんな人なんだろうという不安もあって、ずっとそわそわ落ち着かなかった。

名前を呼ばれて診察室に入る。優しそうな雰囲気の50代くらいの男性医師だった。これまでの病歴を聞かれる。幼少期から大学進学前まで虐待を受けていたこと、小学生の頃からパニック発作に悩まされていたこと、高校あたりから境界性パーソナリティー障害の症状が出てリストカットを始めたこと、病院に通わせてくれと懇願したけれど親が病院に通わせてくれず、大学進学で一人暮らしを始めたのを機にやっと治療を始められたこと。何度も自殺未遂をしたこと。医療保護入院にもなったこと。未遂前にTwitterに「今から死ぬ」とツイートしたのがきっかけで、誰かに通報されて警察に保護されて、そのせいで長年の夢だった仕事をたったの1年でクビになったこと。「話したくないことは話さなくていいよ」と先生には言われたが、あらかた話した。話し終わったあたりから、だんだんぼーっとしてきて、解離が始まって、子供の私になってしまった。

「ちぬちゃん?大丈夫?」と夫に言われる。「あのねえ、混ざってる」と答える。「今は子供のちぬさんは何パーセントくらいかな?」と先生。「わかんなーい」と答える。「この状態だと9割くらいだと思います」と夫が言う。

私が使い物にならなくなってしまったので、診察は先生の質問に夫が答える形で進んでいった。あまり覚えていないが、途中リストカットの話になったとき、子供の私が「じゃーん」といって腕を見せた。先生に「うわっ、これはすごいな」と言われて喜んでいたら、夫が「先生はね、褒めてないんだよ、びっくりしたんだよ」と言った。

夫が「解離するようになってからすごく辛いみたいで…」という話をし始めたとき、子供の私が「死にたいの、わーん」と泣いた。「死んじゃったら、こんなに優しくて理解のある旦那さんにも二度と会えなくなるんだよ?」と先生。「やだー、でも死にたいー」と泣く子供の私。「どうして死にたいの?」と先生。子供の私は「あのね、だってね、おかしくなっちゃったから、いっぱい迷惑かけちゃって、これ以上迷惑かけるくらいなら死んじゃいたいのー」と泣く。夫が「ちぬちゃん、前も言ったけど、ちぬちゃんが死んじゃうほうが迷惑だよ」というと、先生は笑って「大変だ、ちぬさん!旦那さんは死なれたほうが迷惑だって!」と言った。子供の私もけらけら笑った。

 

「ちぬさん、今から大事なことを言うけどね、今の子供のちぬさんも、症状が出てないときの大人のちぬさんも、どっちもちぬさんなんだよ。だから何も怖いことなんてないんだよ」と言われた。私は私。解離に怯え、記憶がなくなるたびに泣き、自分が得体のしれない何かに感じてしまっていた私の心に、先生の言葉がすとんとおさまった。

診察室を出るときに、先生が「これで5回目くらいになると思うけど、死んじゃったらもう旦那さんに会えないんだからね!だから死んじゃだめだよ!」と笑いながら言った。

 

会計を終えて病院を出るころには、子供の私から大人の私に戻っていた。病院を出て、夫と手を繋いだ。「何かおいしい飲み物でも飲もうか」と言われて、コンビニでドリンクを買った。「ちぬちゃん、いつもみたいに写真撮ろっか」と言われて、写真を撮った。

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 一口飲んだあと、夫が「ちぬちゃん、今日は本当に頑張ったね」と言った。その言葉を聞いたら、なんだかこみ上げるものがあって、また泣いてしまった。

 

あの日から10年

2011年3月11日 午後2時46分

 

あの日から10年。コロナ禍の中で10年を迎えることになろうとは、思いもよらなかったけれど。

「忘れてはいけない、風化させてはいけない」という気持ちは強い。しかし、その一方で、未だに津波の映像も原発事故の映像も見れず、東電関連のニュースが流れる度にため息をつき、「あの日のことを忘れてしまいたい」と思うことも、ないわけではない。

 

震災当時、やっと電気が通じるようになった避難所のテレビに映し出された津波の映像。見知った町の変わり果てた姿。連絡がつかない家族と友人。段ボールの切れ端を集めて、避難所の隅っこで肩を寄せ合って過ごした。原発事故を知って、目の前が真っ暗になったのを覚えている。風評被害が悔しくて悔しくて仕方なかった。家族と連絡がついたのは、震災から3日後のことだった。

 

昨年春に結婚した夫は、元々は原発のほど近くに住んでいた。当時高校1年生だった彼は、被災した翌日、何の説明もなく突然マイクロバスに乗せられ、故郷を追い出された。1年以上福島県内を転々とし、家族全員で移り住んだ地で生活を立て直す中で、私と出会った。未だに故郷は帰還困難区域で、戻ることはできない。

 

震災がなければ、出会うことはなかったのかもしれない。

 

夫に限らず、震災がなければ出会うことはなかったであろう人がたくさんいる。そのことを考えると、どうしようもなく複雑な気持ちになる。同じような人が、きっと日本中にいるのだろう。この10年間、震災を通して、きっとそれまで交わることがないと思われていたたくさんの人生が交錯したのだ。そう考えると、やはりなんとも言えない気持ちになる。言語化できない感情。

 

10年経って分かることは、ただ、これからも生きていくだけ。生かされていることに感謝して、生きていくことしかできない。震災を知らない世代も増えている。その中で、震災の記憶を繋いでいくこと。11年目も、12年目も、これからもずっと。10年経って「区切り」のようになってしまうのが、一番怖いと思っている。

過去は消えず未来は読めず 不安がつきまとう

健康は何より大切な財産です(戒め)

 

痔になりました。というか、もとから痔主だったのだけれど。3年くらい前に慢性裂肛と診断されて軟膏と座薬もらって、薬を塗ってたら良くなったんだよね。そこからもちょこちょこなってたんだけど、病院には行かずに過ごしていて。今回、初めておならで出血という事態を経験し、お尻を抱えて慌てて病院へ行ったわけですよ。やっぱり慢性裂肛でしたくそったれ。

 

後悔すること山ほどあるよ。まずずっと便秘で、3~4日に1回しかトイレがでなかった。なかなか出ないから排便が面倒くさかったし、トイレを我慢しがちな生活だった。水道代がもったいないからって10年以上シャワーだけで済ませてた。1日1食しかご飯食べてなかった。スナック菓子食べただけでお昼ご飯とか言ってたし、水分だってほとんど取ってなかった。「ちゃんとご飯食べなきゃだめだよ」と言われても、「どうせ長生きするつもりないし」と思ってた。死にはしないけど痛くて辛い病気が世の中には山ほどあって、そのうちのひとつが痔だとは気付かなかった。

 

痔ごときで大げさな、って思われるかも知れないけど、本当に辛いぞ。日々の生活につきまとう排便が地獄になる。本当に痛いし、本当に辛い。トイレに行った後、冗談抜きで5時間くらい痛みが続く。「辛いもの食べたあとお尻が痛い」っていうのは誰もが経験したことがあると思うけど、あんなのの比じゃないくらいの痛みがずっと続く。それが毎日毎日。燃えてるんじゃねえの?と思うくらい痛い。だからトイレに行くのが怖い。痛みがあるときもないときも、ずっとおしりのことばかり考えて、検索履歴はおしりのことだらけ。座薬を入れるときは指の第一関節までいれなきゃいけなくて、終わった後手を洗いながら涙が出てしまう。人間の尊厳とか、プライドとか、そういう大事なものがゴリゴリに削れていくんだよ。なんでこんなに情けないことしてるんだろう、そういう辛い気持ちでいっぱいになってしまうんだよ。

 

今回病院で慢性裂肛と言われて調べてみたら、「慢性裂肛は手術が必要」という記事ばかりでてきて、本当に不安で仕方なかった。4日目、不安に耐えきれず病院に電話して、先生と話した。「あなたは手術しなくて大丈夫ですよ、そんなに心配しないで。そこまで酷くないから」と言われてとりあえず安心したけど、でも不安はつきまとう。これから先一生この傷ついたおしりを抱えて生きていかなきゃいけないのかな、とか、裂肛の原因が便秘だったから便秘にならないように一生気をつけなきゃいけないのか、とか。先のことを考えると本当に本当に不安で、逃げ出したくなる。お盆休みは夫とゆっくりお酒でも飲もうって約束してたけど、それも無理になってしまった。楽しみにしてたのにな。慢性裂肛は繰り返すって言われてるし、実際繰り返してしまった。今はただ不安。本当に軟膏と座薬で治るのかな。また何事もなく生活できるようになるのかな。治るまでどのくらいかかるのかな・・・。

香水のせいだよ

なんでもかんでも香水のせいにするな(戒め)

 

梅雨でひぃひぃ言ってたけど、流石にここまで長引くと大分諦めも出てきた。今年の梅雨長すぎない?早く梅雨明けしてくれよ。大丈夫か地球。

先週先々週はしんどくてもうだめだ~ってなってたけど、今週は割と適応できている気がする。気がするだけかな。

 

明日は3週間ぶりの病院。減薬しようとしてたけど、繁忙期が近づいてきてるからとりあえず様子見にしたほうがいいかなと思っているところ。薬減らして体調悪化したらマジで詰むので・・・本当は一刻も早く減薬したいし、なんならもう薬なんて飲みたくない勢いなんだけど、そうもいかないよねえ。入眠が難しい日も続いていたけど、とりあえず毎日決まった時間に起きるようにしたら少しはマシになった気がする(初歩中の初歩)。

 

毎日毎日、なんだかんだ頑張って生きてる、7月が終わる。きっとこのまま生きていって、8月も9月もあっという間に終わってしまって、2020が終わるのだろうな。死ななければ生きていけるんだ、その日々の中身が何であれ。息をするだけで精一杯な日も、夜眠れなくて怖くて泣いてしまう日も、他人の目が怖くて帽子を深くかぶった日も。ひとつづつ繋いでいけばいいのかもしれないな。ジェットコースターのように浮き沈みする日々の中で、そんなことを考える。

雨は昨日から降り続いて

体調が悪い。怖い。

 

この間の離脱症状がトラウマで、体調が悪いのがとにかく怖い。また動けなくなったらどうしよう、また入院と言われたらどうしよう。怖くて怖くて、自分がどんなに臆病な人間かを思い知らされる。

 

今朝、夫は「体調悪くなっちゃうかも知れないけど、雨のせいだからね」と言い残して仕事に行った。まるでこうなることを予期していたかのように。ずんずんと襲ってくる頭痛に、雨だからだよ、雨だから仕方ないねと言い聞かせる。最初は家でゲームでもやってようかと思ったけれど続かず、一人で休んでいるのにはあまりにも不安で、仕事の時間にはまだ早いが職場に来た。

 

自分以外の人の声。みんな調子が良さそうでうらやましくなる。なんだって私は、すぐ体調を崩してしまうのだろうか。早く元気になりたい。早く皆みたいに動けるようになりたい。早く笑顔で、早くゲームとかもできるようになって、早く毎日幸せと感じられるようになって、早くフルで仕事ができるようになって・・・早く早く早く。焦っても仕方ないことは分かっているのに、今をなんとか乗り越えることが大事なのに、どうしても周囲の人と自分を比べて焦ってしまう、もがいてしまう。

ゆっくり自分のペースで行けば良いんだよ、とつぶやいてみる。宙に浮いた言葉をぼんやりと見つめる。理想と現実のギャップに涙が出る。ほんとうは「ゆっくり」なんて求めてない。誰よりも早く進みたい。しっかりとした暮らしをして、仕事をバリバリこなして、空いた時間に習い事をしたりして・・・どうして、どうしてできないんだろう。理想の自分にはなれない。これ以上は頑張れない。本当はもっともっと充実した毎日を送りたいのに。「休むことは大事だよ」と心の底から思って他人に伝えているくせに、私自身には適用されないのはなぜだろう。まとまりのない思考。

 

「雨のせいだからね」ともう一度唱えてみる。雨のせいだからね、調子が悪くても怖くないよ、夕方だから怖くなっちゃったんだね。いつも夫から言われている言葉を自分で自分に言い聞かせる。少し落ち着く。調子が崩れたのは梅雨入りしてからな気がする。きっと梅雨だからだ。早く梅雨が終われば良いのに。

離脱症状が辛すぎる話

頭の中を覗かれる感覚が落ち着きました。

 

shifukunote.hatenablog.com

 自分が自分じゃなくなるような感覚が酷すぎて、もう人生終わった絶望しかないと思った先週。

水曜日、耐えきれなく病院に行き、主治医から入院を強く勧められて、強制的に薬がカットされた。

 

カットされた薬はジェイゾロフト100mg、マイスリー10mg、セロクエル100mg。

減薬になったのはコントミン(25mg→12.5mg)、ワイパックス(2mg→頓服上限1mg)、ベンザリン(4mg→2mg)。

増量になったのはリスペリドン(0.5mg→2mg→1mg)。

 

 

薬を絶った翌日、木曜日。

この日は身体がだるいだけで、頭を覗かれる恐怖感が勝っていた。

 

金曜日になると頭を覗かれる感覚はなくなった。その代わり、ものすごい離脱症状が起こった。身体がだるくて動けない。頭の中がぼうっとしてずっと厚いもやがかかったような感覚。恐ろしくて恐ろしくて仕方なかった。なんとか仕事には行ったものの、1時間も持たずに無理になってしまい、早退した。とにかく信じられないくらいだるくて、頭がおかしくなりそうだった。

 

土曜日は診察日。頭の中を覗かれる感覚がなくなったと伝えたら、入院はしなくても良いことになった。しかしだるさがあまりにも酷すぎる。だるくてだるくて仕方ない。結局一日動けなかった。夕方まで一人で家にいてずっと寝ていたが、恐怖感が酷すぎて狂いそうだった。「一生このままだったらどうしよう」「こんなに不安になるくらいなら入院すれば良かった」「全然身体が動かない」頭がぼおっとしてもやがかかっている。気が狂いそうで、頭がおかしくなってしまいそうで、このまま死んでしまいそうで、怖くて怖くて仕事中の夫に何十通もLINEを送った。夫は「夜になったから不安になっちゃったんだね、風邪で夜熱が出ちゃうのと同じだよ、安心してね」と返信してくれた。夫が帰宅してからワンワン泣いた。情けなくて仕方がなかった、申し訳なくて仕方がなかった。結婚して2ヶ月でこんなにもおかしくなってしまうなんて本当に情けなくて、義母に「息子さんと結婚させていただいたのにこんな風になってしまってすみません」と夫経由で伝えてもらった(普通に心配された)。

 

日曜日も一日動けなかった。本来だったら午前中は教会に行くのだけれどそれもできず、ずっと寝込んでいた。夜になって、夫がうどんを作ってくれたけどほんの少ししか食べれなかった。ゲームをする気にもなれなかった。とにかくずっと不安で、怖くて、夫に「私は大丈夫なのか」「このまま死んだりしないのか」「身体は本当に元通りになるのか」と延々と聞いていた。夫は辛抱強く「大丈夫だよ、今だけだよ、昨日より今日の方が良くなってるよ」と言ってくれた。本当に頭が下がる。感謝しかない。優しさの塊みたいな人だと思う。

 

月曜日は仕事を休み、家で休養していた。昼頃起きて、ぼんやりしていた。この日からだるさがだんだん抜けてきたのが分かり、代わりにシャンビリを意識し出すようになった。夜は久しぶりにおなかが空いて、夫の作ったクリームパスタを食べることができた。食べながら、ぼろぼろ泣いてしまった。ちゃんとおなかが空いてご飯を食べることができるのがこんなに幸せなことだなんて、今まで知らなかった。

 

 

火曜日から仕事に復帰している。相変わらずシャンビリはあるし、頭がぐらぐらする感じも残っているが、心なしか少しずつ回復している気がする。

まっすぐ歩けることも、頭の中が静かなことも、食欲があることも、おなかが空くことも、夜眠くなることも、朝起きることも、仕事に行けることも、人と会って喋れることも、日常の全部が当たり前じゃないと知った。本当に地獄のような離脱症状だった。ずっと一人で「助けてください」だとか「もう殺してください」だとか叫んでいたし、Twitterでも辛い辛いと書いていた。薬の離脱症状は今までも何度か経験してきたが、ここまで体調が悪くなったことはなかったように思う。今回の減薬・断薬が突然で、一気にカットされたからだろうけれど。でも本当に死ぬかと思った。何度でも言うけれど、本当に本当に死ぬかと思った。一番辛い峠は越えたと思う。あとは少しずつシャンビリが落ち着くのを待つだけ。いつまで続くか不安はあるけれど、地獄のような先週をなんとか生き抜けたから、きっと大丈夫だよね。少しずつ、少しずつ、今の状態を受け入れて感謝しながら歩んでいこうと思っている。